■  口承文芸  ■




日本語では「ユーカラ」と一言で呼ばれている口承文芸は、物語性を持つものは大きく分けるとアイヌ語でカムイユカラ(神謡)、アイヌユカラ(英雄叙事詩)、ウエペケレ(散文説話)の三つがあります。

カムイユカラはさらにその物語の主人公によって自然神謡、人文神謡(オイナ)の二つの形態に分かれています。

「自然神謡」の神々は、動物神(クマ、オオカミ、キツネ、エゾイタチ、シマフクロウ、シャチ、ヘビ、カエル、沼貝)、植物神(トリカブト、オオウバユリ、アララギ)、物神(舟、錨)、自然神(火の神、風の神、雷の神)など、動物の神が多く登場します。

これらの動物神は、神々の世界では人間の姿をしていますが、人間の世界に訪れるときは動物の姿で訪れてきます。
自然神謡のなかにはある特定の動物が、人間の先祖であることを説いているものもあります。

このような点で考えてみると、自然神謡は、人間がある特定の動物と親類であると考えた、いわゆるトーテズミ社会、原始共産制の行われていた小集団社会を背景にして発生してきたことが考えられます。

これに対する「人文神謡」は完全な人格神が主人公になっています。
自然神謡においては、動物神が人間に対して支配的なのに対し、人文神謡は人格神(オイナカムイ、アイヌラックル、オキクルミ、サマイクルなどの名でよばれています)が、人間に対して完全に支配的な地位をしめ、人間世界の根元を豊饒にする叙事詩です。

アイヌ社会にこのような人格神の観念が発生するためには、集団社会のなかで階級の分化が生じ、支配者と被支配者との社会区分が行われたと考えられます。日本語では「ユーカラ」と一言で呼ばれている口承文芸は、物語性を持つものは大きく分けるとアイヌ語でカムイユカラ(神謡)、アイヌユカラ(英雄叙事詩)、ウエペケレ(散文説話)の三つがあります。

カムイユカラはさらにその物語の主人公によって自然神謡、人文神謡(オイナ)の二つの形態に分かれています。

「自然神謡」の神々は、動物神(クマ、オオカミ、キツネ、エゾイタチ、シマフクロウ、シャチ、ヘビ、カエル、沼貝)、植物神(トリカブト、オオウバユリ、アララギ)、物神(舟、錨)、自然神(火の神、風の神、雷の神)など、動物の神が多く登場します。

これらの動物神は、神々の世界では人間の姿をしていますが、人間の世界に訪れるときは動物の姿で訪れてきます。
自然神謡のなかにはある特定の動物が、人間の先祖であることを説いているものもあります。

このような点で考えてみると、自然神謡は、人間がある特定の動物と親類であると考えた、いわゆるトーテズミ社会、原始共産制の行われていた小集団社会を背景にして発生してきたことが考えられます。

これに対する「人文神謡」は完全な人格神が主人公になっています。
自然神謡においては、動物神が人間に対して支配的なのに対し、人文神謡は人格神(オイナカムイ、アイヌラックル、オキクルミ、サマイクルなどの名でよばれています)が、人間に対して完全に支配的な地位をしめ、人間世界の根元を豊饒にする叙事詩です。

アイヌ社会にこのような人格神の観念が発生するためには、集団社会のなかで階級の分化が生じ、支配者と被支配者との社会区分が行われたと考えられます。


フクロー神が所作しながら歌った神謡



「銀のしずく降れ降れまわりに
金のしずく降れ降れまわりに」

という歌を私は歌いながら

川の流れに沿うて下り、

人間の村の上空を通りながら

自分の下のほうを眺めると

昔の貧乏人が今は長者になり、

昔の長者が今は貧乏人になっている様子です。



全文


この神謡は「コタン・コロ・カムイ・ヤイエユカル」(Kotan-Kor-Kamuy-yayeyukar)といいます。

「コタン・コロ・カムイ」(「村を・守る・神」)とはフクロー神のことで、「ヤイ」は「自分」、「エ」は「それについて」、「ユカル」は「真似る、演技する」なので、これはフクロー神が自分について真似る、自分を演技する、自分の体験を演技する、という意味だったと思われます。

このカムイユカラは、このフクロー神が幸福の象徴であり、ヒューマニズムの成熟が鮮明に見られています。

カムイユカラは、折り返しのある謡いものの意味がおかれており、一般的にはすべて主人公である動物神の鳴き声やある種の動作を音韻的に示していますが、この詩篇のリフレーンは



「銀のしずく降れ降れまわりに
金のしずく降れ降れまわりに」

「シロカニペ ランラン ピシカン
コンカニペ ランラン ピシカン」



となっており、他のカムイユカラとは違う形式です。

しかしその冒頭のリフレーンから美しいメルヘンの風をおこし、耳に快く響いてきます。
そして絶えることなく次句の旋律を促したてながら形成されています。

一見無造作にみえる無技巧的な技巧が駆使されており、しかし駆使されるというには、驚くべき天心の冴えが見られ、無名な、しかも永い世代のあいだ無数に存在した口誦詩人たちの思念の美しさが、この作品によく泌みとおっている、といえるでしょう。

さらに言葉と音楽の分かちがたい流れのなかに、この二つの機能がたがいに溶け合うところに美の意識が鮮明に掲げられており、この作品は、優雅のおもむきを見せた神品といえます。



オイナカムイ夫婦が所作しながら歌った神謡



私は真の淑女で

真の首領を夫にもち

神の様においしい物を食べ

美しい着物を着て

たのしく暮らしていた。

ある年

男児を一人もうけた。

実に神の様に美しい子だったので

私ども夫婦の可愛がりようは一通りでなかった。


全文


この神謡は、アイヌの女性を掠奪しようとする和人とアイヌとの闘争を主題にして構成されています。

このオイナ(人文神謡)の背景としては、松前藩公の勢力が蝦夷地に対し搾取的政策を行ったアイヌ民族弾圧の時代が考えられ、この神謡は、和人のアイヌに対する搾取関係、その時代背景を考えないとまったく理解することができず、従ってこの作品は事実の上に基づいて作られたものであることが考えられます。

この神謡に登場してくる首領は、オイナカムイであって、アイヌの崇拝する文化神です。

この文化神は人間の始祖ともいわれており、地方によってはそれぞれに、オキクルミ、オキキリムイ、アイヌラックル、オイナカムイの名称でアイヌに親しまれていますが、このような文化神の自叙の歌には、悪辣な人間や、悪の象徴である魔神をこらしめる歌が多くみられます。

この作品のオイナカムイは、未開社会の巫術に長じたシャーマン酋長が意味されるのですが、こうした作品を産んだ背景の社会としてシャマニズムの爛熟した社会が考えられることができます。

「俺は刀をもとの鞘に納めて、雲間をめがけて飛び上り、羽の生えた鳥、つばさの生えた鳥になって、二つの雲三つの雲の間をすべるように飛んで行った。」

この表現はこの作品の一節ですが、現実に対して、超越意識のつよいシャーマンの性格を描いたものであり、神謡にはこのような表現が多く見られますが、これはかつて神謡がシャーマン酋長によって保護され、管理されて、伸展してきたからだろうと思われます。

従って、現代人の意識だけで神のユーカラを理解することは困難であり、この意味でこの神謡は興味ある課題を有しているといえるでしょう。







参考資料:アイヌ民族最初の文学博士、知里真志保、小田邦雄共著「ユーカラ鑑賞