| ■アイヌ民族Q&A ここではアイヌ民族について何もわからないという方のために、解放出版社さんよりご協力をいただき、 「知っていますか?アイヌ民族一問一答」より一部抜粋させていただきました。 |
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■日本におけるアイヌ問題とは? アイヌ民族の人権に関わる問題を「アイヌ問題」という人がいますが、これは誤解を招きやすい表現です。 アイヌ民族の方に何か解決しなければならない「問題」があるかのようにとれるからです。 アイヌ民族の人権の侵害は、日本社会の方に「問題」があるわけですから、本来は「日本問題」あるいは「日本人問題」としなければなりません。 しかしながら、日本人あるいは日本人が責任をとらなければならない問題は各領域に山積みされていますから、問題を限定するという意味で、ここでは「アイヌ民族問題」と記すことにします。 この問題は、アイヌ民族が独自の文化や社会を形成していた地域に日本人が不法に侵入し、土地を奪い取り、文化を否定し、経済的な搾取を行い、日本人への同化を強制してきたことに原因があります。 アイヌ民族は、伝統的に所有していた土地を一方的に取り上げられ、アイヌ語などアイヌ文化を禁止されて、日本人になることを強制されました。 同化政策を強化する一方で、アイヌ民族には「旧土人」という差別的な呼称が与えられ、学校や地域社会、就職や結婚の際には差別が平然と行われました。 現在も、アイヌ民族は民族としての尊厳を踏みにじられ、厳しい経済的格差や社会的差別に苦しめられています。 個別の差別問題を解決するとともに、アイヌ民族が民族としての尊厳を取り戻し、その経済格差を解消し、差別構造を撤廃し、民族の伝統を発展させた形での独自な社会の形成が取り組まれています。 もちろん、これは日本人にとってもさまざまな民族や異なる文化をもった集団が共生できる社会を作るために重要な問題となるはずのものです。 ▲TOP |
| ■アイヌ民族の「アイヌ」とはどういう意味ですか? 「アイヌ」は「人間・ひと」を表します。 アイヌ語では、本当に立派な人を「アイヌ・ネノ・アン・アイヌ=人間らしい人間」という使い方をします。 つまり、人間としての智恵にとみ、感性が豊かであるといったよい意味を含む抽象的な言葉が、「アイヌ」という言葉です。 普通に具体的な「人」という意味では、「クル」とか、「ペ」という言葉があります。 日高の「サル(沙流)の人」は「サルウンクル」、東方の「メナシ(目梨)の人」は「メナシクル」という言い方もあります。また、「となりの人=サマイクル」、「死んだ人=ライクル」、さらに神話に登場してくる「アイヌラックル」は「人間の匂いのする人」という意味だと言われています。 「川上の人」を「ペナンペ」、「川下の人」を「パナンペ」、「悪い人」を「ウェンペ」などという言い方もあります。 ▲TOP |
| ■アイヌ民族の歴史について ●アイヌ文化の成立以前 アイヌ民族は、サハリン南部、千島列島、北海道本島、東北北部に暮らしていたことが確認されています。 北海道に人間が住みはじめた年代は、約三万年〜一万年前までさかのぼると推定されていますが、大きな幅があり、必ずしも学説は一致していません。 北海道を含む日本列島では、旧石器時代の後、紀元前一万年前から始まったとされる縄文文化の時代が続きます。 この時代には、アイヌ民族と大和民族の祖先は共通していたのではないかと言われています。 本州以南では、紀元前二百年ごろから大陸の影響を受けて弥生時代に入りますが、学説によれば、この時期縄文人と渡来人が融合して大和民族の原型ともいえる新しい民族形成が行われたのではないかと言われています。 一方、北海道では、民族の融合が起こらず、縄文文化がさらに発展して、約二千年前から鉄器を使う続縄文文化が起こりました。 そしてこの地域では、八世紀ごろ、土師器(はじき)の影響を受けた擦文式土器やかまどに代表される擦文文化という独特の文化が形成されました。 一方、オホーツク海周辺にあって、精巧な金属器を持つ漁撈、狩猟文化であったオホーツク文化がサハリンから南下し、北海道の北東部の海岸にオホーツク文化圏が擦文文化の前期に形成されました。 この文化の遺跡としては、網走市のモヨロ貝塚が有名です。 このオホーツク文化人は、海獣を捕って生活し、大陸からの輸入品を活用していたようです。 この時期は、北海道では続縄文文化・擦文文化とオホーツク文化が共存していた時期に当たり、アイヌ民族の民話に登場するコロポックルなどはこのオホーツク文化人を指したものではないかとも言われています。 こうした諸文化の土台の上に、ほぼ十二〜十三世紀にはアイヌ文化が確立したのです。 ただし、日本文化と一口に言っても東北の文化と九州の文化では大きく違います。また、室町時代の文化と江戸時代の文化も大きく違います。 アイヌ民族の伝統的領土とよべる北海道本島は九州の約二倍の面積を持っていますし、サハリンも南北千キロメートルに及ぶ大きな島で、千島列島も全長約千五百キロメートルで広大な地域に分布しています。 このため、サハリン、千島列島、北海道本島でアイヌ文化にも違いがありますし、北海道本島の中にも文化的な差異があります。また、それぞれの地域が時代により、中国人やロシア人など接触する民族の違いで異なる文化発展をした事例も見られます。 この点、アイヌ文化が「日本の北辺」の狭い地域に成立した均質で、静的な文化であるという先入観から自由になることも重要だと思います。 ●アイヌ文化の成立 アイヌ文化が確立した鎌倉・室町期には、東北の十三湊(とさみなと)、その後道南の松前で、アイヌと和人(大和民族)は大規模な交易を営んでいましたが、かなり古い段階から両者はなんらかの形で交易していたと考えられています。 アイヌ文化の特徴は、狩猟や漁撈、採集に若干の農耕を組み合わせたものだと言われていますが、狩猟民や漁撈民の多くが交易に熱心であったということは見落としてはなりません。 アイヌ民族の交通ルートは、主に河川に沿ったもので、丸木舟を使って自由に往来しました。 さらに、これに側板を使って舷側を高くし、帆を取り付けたイタオマチプとよばれる外洋帆船で、南は松前や十三湊、東はカムチャッカ半島、北はアムール河畔まで交易に出かけています。 アムール河畔で行われた中国との朝貢交易では毛皮や鳥の羽などと交換に「蝦夷錦」とよばれた中国宮廷の古着を松前にもたらしました。 その「蝦夷錦」が文献に最初に出てくるのが1143年の『中外抄』という書物ですから、十二世紀にはもう既に中国の古着が北方の交易ルートで和人社会に入って来ていたのです。 また、「蝦夷が千島」について最も早く記述している1356年の『諏訪大明神絵詞』によれば、すでに道南でアイヌと和人の交易が、東の交易ルートでは、ラッコの毛皮や干サケなどの物産と日本製品が交易されたようです。 このようにアイヌ民族が運営した交易ルートで集められた物産は、松前藩の貴重な収入源であると同時に、献上品として中央政府にこの地域の和人が取り入る手段でもあったわけです。 よく言われるように、アイヌは鉄製品や綿製品を和人に依存していました。 しかし、当時アイヌが扱った海獣や中国の絹製品の古着などは貴重な交易品でした。アイヌ民族と和人との関係は交易を通しての共存関係であったといえます。 ●和人との三つの戦い アイヌ民族と和人の交易は主に、安東氏の支配下にあった十三湊で行われ、小規模には道南に建設された十二の「館」で行われました。 十五世紀に安東氏の勢力が南部氏の手で十三湊から追放されると、その逃亡先の道南の十二館で統一運動が起こり、この時期にアイヌ民族との大規模な戦争が始まったと和人の記録は記しています。 具体的には、1456年、今の函館郊外に位置する志海苔(しのり)館でアイヌの少年が和人に刺殺されたことから、道南のアイヌが蜂起し、翌年には、大首長コシャマインに率いられて十二館の内、十館の和人勢力を討ち破りました。 その後、蠣崎氏の統治する館の客将武田信広にコシャマイン父子は射殺されてしまいます。 これを「コシャマイン戦争」と言います。その後、多くの戦いを経て(そのほとんどは、騙し討ちで和人が勝利したことが史料からは読み取れます)、道南は蠣崎氏を継いだ武田信広の子孫の下に統一され、十六世紀の中頃には、再び松前港はアイヌ民族と和人の交易で栄えるようになりました。 道南の和人勢力を統一した蠣崎氏は、豊臣秀吉から蝦夷が島島主の待遇を「文書」で確認しています。 また、江戸幕府の成立後、松前と改名し、一万石暮らすの大名として幕藩体制に組み込まれ、アイヌ民族との交易権の独占を認められました。 さらに、本土の大名並みに封建制度の整備を始めますが、松前では支配地の農民から年貢をとって家臣の知行に当てることは不可能でした。 松前では、本来の農民がいないために漁民も「百姓」と呼ばれ、形式だけの検地も行われたようです。 家臣に対する給料ともいえる知行を、松前はアイヌ民族との交易権とその利益で与えることにしました。 1620年代に入ると北海道の沿岸に「商場(あきないば)」が設定され、アイヌ民族はその商場を与えられた松前藩士とのみ交易をすることを強制され、特別のことがない限り松前港への寄港も禁止されるようになりました。 これを「商場知行制」といいます。松前藩士の北海道への浸出と交易の制限や強制などを理由として、東部の大首長シャクシャインが1669年に松前藩との全面戦争を始めます。 これをシャクシャイン戦争と呼んでいます。シャクシャインは北海道、千島、樺太にまで参戦の檄を飛ばし、和人を追い落とすためにクンヌイまで攻め上がりますが、この戦いで破れ、根拠地シズナイで殺害されてしまいます。これにも騙し討ちが使われたと言われています。 松前の事態は深刻だったらしく、これを幕府に報告し、隣藩の軍事援助を求めました。 1710年代になると、「場所請負制(ばしょうけおいせい)」という制度がかつての商場で行われるようになります。 このころになると以前の商場は「運上場所(うんじょうばしょ)」という呼び方から単に「場所」と呼ばれるようになっていました。 これは、商場の交易権を権利金(運上金)と引き換えに和人の商人に譲るというものでした。 それまで、松前港と関西を往復していた和人の遠隔地商人が直接北海道沿岸に進出するようになりました。 運上金の納入によって、松前藩の財政は安定し、藩士は松前城下のサラリーマンと化してしまいましたが、商人と直接取り引きしなければならなくなったアイヌ民族は、不正や暴力に苦しめられるようになりました。 さらに、その場所でできるだけ利益をあげたい和人の商人は、当時発達した塩蔵技術で塩サケや塩マスを作るため、河口に大きな網を張るなどアイヌ民族の生活が依存している河川での生態系を平気で破壊しました。 また、関西方面での商品作物のためにイワシなどを浜で煮込んで、金肥(きんぴ)と呼ばれる売り買いする肥料を生産するようになり、アイヌ民族を労働力として強制労働させるようにもなります。 これら和人の商人たちは病人には薬も与えず、女性を弄び、夫婦を引き離して夫を別の場所の労働に強制的に従事させるなど、悪逆無道の限りを尽くしました。 時を同じくして、千島列島沿いにロシア人の南下が見られると、こうした時期について、1789年、北海道東部クナシリ・メナシ地方のアイヌが若い指導者マメキリ、セッパヤに率いられて和人に蜂起しました。 これを「クナシリ・メナシ戦争」と言います。長老たちの仲介で和解が成立したのも束の間、松前藩は戦争の指導者たちを逮捕し、ノッカマップで虐殺したと言われています。 ▲TOP |
| ■日本史に登場する「蝦夷」とアイヌ民族の関係は? 古代の大和朝廷に支配権は、中部地方あるいは関東以北には及ばなかったと言われています。 その外側には、大和朝廷の支配下にない人びと、いわゆる「王化(おうか)」の外にある人たち=「化外(けがい)の民」であるとか、「まつろわぬ人びと」とよばれる人びとが生活していました。 大和民族は、この人びとをまとめて「エミシ」「エビス」とよび、「毛人」や「蝦夷」という漢字をあてはめていました。 古代の大和朝廷の政治家に蘇我蝦夷(そがのえみし)という人がいたように、当初はある種の畏敬の念を込めてこの言葉が使われたのではないか、という人もいます。 聖徳太子などの手で中国の中央集権体制が導入され、小帝国が成立した頃から、この「エミシ」「エビス」という言葉には「未開で野蛮な人びと」という意味が含まれるようになったと言われています。 「蝦夷」という文字が「エゾ」と読まれ始めたのは、平安中期からですが、「エミシ」という概念は、特定の民族を指すものではなく、大和朝廷の最大の関心であった服属するかしないかによる区別であったようです。 ところが平安期以降になると、東北北部、北海道のまつろわぬ人びとを指して「エゾ」という言葉が登場します。 「エゾ」という概念には民族としての概念が含まれ、アイヌ民族に極めて近い集団を対象にしたものだと言われています。 歴史上問題となっているのは、古代関東以北に広く生活していた「エミシ」と呼ばれる人びととアイヌ民族の関係です。 「エミシ」と呼ばれる人びとは、強力な軍事力で大和朝廷と互角以上に戦っています。「征夷大将軍」として坂上田村麻呂が派遣された八世紀の戦いも「征伐」と表現されていますがその結果はほとんど惨憺たるものでした。 789年には、五万の大軍が多賀城(現在の宮城県)から出撃しましたが、「エミシ」の指導者、アテルイの軍に大敗を喫しました。 この時、大和軍の死者は千余人、負傷者は二千余人に対し、確認された「エミシ」の死者は89人だけだったと記録されています。 また、「エミシ」が狩猟・漁撈民として記録されている点、さらに東北各地のアイヌ語地名などから「エミシ」はアイヌであったという主張があります。 これに対し、古代の東北地方もかなりの稲作文化をもっていたということが考古学から証明されるようになり、また、馬の産地をもち、騎馬集団として登場する「エミシ」に対して、騎馬文化をもたなかったアイヌはかなり異なった集団だという学説もあります。 この両者の説を対立的に考える必要はないでしょう。アイヌと「エミシ」の文化は古代多くの共通するものをもち、アイヌ民族独自の特徴をもつアイヌ文化は北海道以北に確立していきました。 「エミシ」と共通の文化をもちながら、アイヌ独自の文化が確立されていったのです。少なくとも「エミシ」はアイヌ民族の祖先の集団であったわけです。 これは、日本人あるいは大和民族についても同じ状況であることを忘れてはいけません。 最近の学説によれば、日本人がひとつの文化集団として確立したのは、鎌倉期ではないかとされ、それまでは狭い意味の日本ですら幾つかの民族国家に分かれていく可能性があったようです。 アイヌ民族の起源だけが、「エミシ」や「エゾ」との関係で特別扱いされるのも多くの問題をはらんでいるようです。 ▲TOP |
| ■明治維新後、アイヌ民族の生活はどう変わったのですか? ●民族としての権利の剥奪 1853年以来、アイヌ民族は日本に所属する人民とされましたが、日本人と同じ権利は全く保障されませんでした。 それどころか、民族としての権利が限りなく剥奪されていきました。 その最大のものは土地の権利です。北海道の土地は、「内地」から渡ってきた移民に次つぎと分配されていきました。 1869年の「山林荒蕪地払下規則」は、内地の価格の三分の一から七分の一の価格で土地を移民に払い下げたり、賃貸するものでした。 また、1872年に制定された「北海道土地売貸規則」は、土地取得後十年の免税措置を行いながら、一人当たり10万坪(約33ヘクタール)の土地を日本人移民に払い下げるというものでした。 また、1877年には、「北海道地券発行条例」で、アイヌ民族の住居地も正式に「官有地」に編入されてしまいました。 ほとんどの良質の土地が和人に配分され、残りの山林野は国有地とされてしまいましたが、さらに配分を進めるため、1897年には、「北海道国有未開地処分法」を制定し、150万坪を限度に開墾した土地を無償で与える法律も制定されました。 1899年には、アイヌ民族に積極的に土地を与える「北海道旧土人保護法」が制定されましたが、ここで規定された一戸に付き一万五千坪という土地が、日本人移民10万坪に比べていかに差別的であったかが理解できると思います。 土地が和人に収奪されたために、アイヌ民族の伝統的な経済生活も当然成り立たなくなってしまいました。 開拓使はもちろん1871年にアイヌ民族の農業希望者には、家屋や農具を与える政策を取りましたが、形式的なものであり、また、アイヌ民族の伝統的な生活は、狩猟や漁労に大きく依存していました。 狩猟では、1876年にアイヌ民族伝統の仕掛け弓猟を禁止し(代わりに許可証を発行して猟銃を貸与)、1876年にアイヌ民族の食糧分として許されていたわずかな鹿猟も全面的に禁止しました。 当時、エゾ鹿は鹿皮など安易な現金収入を求める和人の開拓民によって、ピーク時の1875年には7万5千頭が乱獲されるという状態で、明治中期にはほぼ絶滅に追い込まれる状態でした。 漁撈では、1878年に千歳川にサケの孵化場が建設されたのを機に、1883年には十勝川と、次つぎと河川でのサケ漁がアイヌには禁止されていきました。 アイヌが、山で鹿を捕れば「密猟」、川でサケを捕れば「密漁」、薪を拾いに行けば「盗伐」とされる状態でした。 こうした中で、伝統的な食事をはじめ多くの生活様式の日本化が強制されました。この時期は、アイヌ民族にとって最も厳しい時代でした。 ●同化政策 土地が奪われ、伝統的な生活様式が破壊される中で、アイヌ民族を民族として消滅させ、日本人にするための「皇民化」政策が強力に進められました。 アイヌ民族は死者が出ると、形見の品や家を燃やして死後の世界に送る習慣を持っていましたが、この自家焼却や耳輪などの伝統文化が1871年に禁止され、日本語や文字の強制が始まりました。 また、同じ年、戸籍法によってアイヌは「平民」に編入されましたが、1878年になると戸籍上「旧土人」と呼称されることになりました。 さらに、1901年には、「旧土人児童教育規定」が制定され、アイヌ民族を日本人から区別し、同化のための簡易教育を行う「旧土人学校」が二十四校も建設されました。 特に、アイヌ民族の他に、ウィルタ民族やニブヒ民族が生活していたサハリンでは、これらの民族をさらにアイヌ民族と分けて同化教育をするという差別も行われています。 ▲TOP |
| ■北海道以外にもアイヌ民族は住んでいたのでしょうか? アイヌ文化の確立の時期に、アイヌ民族が生活を営んでいた地域は、東北北部、北海道本島、サハリン南部、全千島列島におよびます。 北海道は現在日本の総面積の20パーセントを占め、九州の二倍の面積をもっていますし、サハリンは、南北約千キロメートルの大きな島で、千島列島も全長約千五百キロメートルにわたっています。 こうした広大な地域にアイヌ民族はそれぞれの地域性をもつ独自な文化をもってきました。 なお、南サハリンには、1934年の統計で、アイヌ民族の他、ウィルタ、ニブヒ(フ)、キーリン、サンダー、ヤクートの計六つの先住民族が生活しており、その総人口は2,009人という記録が残っています。 また、千島列島にも、ロシア人がラッコ猟のために連れてきたアリュート人(アリューシャン列島の先住民族)やイテリメン人(カムチャダール、カムチャッカ半島南部の先住民族)が生活していました。 ▲TOP |
| ■アイヌ民族にも強制連行された歴史があると聞きましたが・・・ ●「樺太・千島交換条約」 「樺太・千島強制移住」を生んだのがこの「交換条約」です。 ロシア帝国の浸出に伴いアジアの北方地域でも、ヨーロッパ的な国境の画定が政治問題となります。ロシアと清との間にネルチンスク条約やアイグン条約が結ばれたのはそのためです。 日本とロシアの国境交渉は1853年に長崎で幕府の代表川路聖漠(としあきら)とロシアの代表プチャーチンとの間で行われました。 この時、プチャーチンは千島列島全域の領土権を主張しましたが、川路はアイヌ民族は日本に所属する人民であり、アイヌの住んでいるところは全て日本の固有の領土だという一方的な見解を表明しました。 1855年に結ばれた日露通好条約では、千島列島では、エトロフ島とウルップ島の間を境界とし、その後、サハリンは日露国民の雑居地であると決められました。 雑居地の行政上の問題などから、1875年に「樺太・千島交換条約」が結ばれ、サハリン全域がロシア領に、千島列島が日本領になることになりました。 領土の交換に伴い、条約に従って、サハリン南部と千島列島に住むアイヌ民族の帰属と移住が一方的に問題とされるようになりました。 ●「樺太アイヌ強制移住事件」 サハリンでは北海道に面したアニワ湾に生活するアイヌ841名が日本国籍をとることを選択し、移住希望地である宗谷に向かいました。 アニワ湾一帯のアイヌは北海道との関係が深かったことと、宗谷に移住しても同じ海で漁業できるというのが日本国籍を「希望」したアイヌの気持ちだったようです。 ところが、当時年間5,000人強の開拓移民の流入の中で、開拓使は約900人の労働力を石狩地方の農業開拓の一部に組み入れることを考えました。 開拓使長官黒田清隆はアイヌとの約束を反故(ほご)にして石狩川上流の江別太(現在の江別対雁)への移住を進めようとしました。 これに対し、樺太アイヌの移住者は、次のような上申書を提出して抗議しました。自分たちは海岸に住み慣れており、海漁のできないところでは生活できない、希望が入れられない場合には、樺太に帰るしかないが、迷惑はかけないつもりである、自分たちで舟を造り、それに乗って帰国するが、高波で舟が転覆し、水死するようなことがあっても決して後悔しないとする、誇り高いものでした。 これを拒否した黒田は警察権力と軍艦を動員し、翌1876年に樺太アイヌを江別太に強制連行しました。 1877年には、この地域にコレラが流行し、また、1886年から翌年にかけては天然痘が流行するなどで移民の三分の一が亡くなりましたが、日露戦争ののち、南サハリンが日本領となるとアイヌ移民の多くが、先を争って、サハリンに帰国しました。 ●「千島アイヌ強制移住事件」 ウルップ島以北の北千島には、当時の記録によると109名の千島アイヌがいましたが、その内9名を除き、日本国籍をとることになりました。 この人たちが日本国籍を取得した理由も同じ土地で生活できるということだけでした。 ところが、この地域は長年ロシアの支配下にあり、また、ラッコ猟の外国船が往来するために、千島アイヌの多くが、ロシア語や英語に堪能でした。日本政府は、こうしたアイヌが外国人密猟者やロシアのスパイの手引きをするのではないかと恐れ、エトロフ島への移住を再三勧告しました。 しかし、千島アイヌがこれに応じないため、1884年武力でアイヌの家屋や舟を焼き払い、失踪した3人を除く94人全員を色丹島に強制移住させました。 色丹島はほとんど強制収容所という場所で、多くの人口が失われました。 また、ロシア国籍を取得した千島アイヌもカムチャッカ半島の中部に移住させられましたが、故郷に近い南部に勝手に家屋を移転したため、ロシア政府によって奴隷としてコサックに売られました。 その後、ミンスクやリトアニアを経て、千島アイヌの子孫が「クリールチク(千島人)」という名字でポーランドに生活していることも確認されています。 ▲TOP |
| ■「北海道旧土人保護法」の「旧土人」という呼び方はなぜいけないのでしょうか? もともと「土人」という言葉は、「その土地の人・土着の人」という意味で、江戸時代までは差別的な意味はもちませんでした。 「攘夷論」にみられるように、「野蛮で、未開な異民族」という差別的な言葉としては「夷人」や「夷狄(いてき)」が使われていたようです。 シャクシャイン戦争の後の報告書や幕末の文書にもアイヌ民族に対して「夷人」という言葉が使われています(また、アイヌ語をさして「夷語」という言い方もしています)。 ところが、北海道開拓が始まると「土人」といいう言葉がアイヌ民族を対象に急速に差別語に転化していきました。 また、1878年から、アイヌ民族は戸籍上統一的に「旧土人」と呼ばれるようになりました。 この「土人」や「旧土人」という言い方は、本来の意味ではなく「内地人」に対する言葉として使われ、「野蛮で未開な異民族」という差別的な意味をもっています。 「旧」という文字も露骨な差別を隠すためにつけられた行政用の言い方で、さらに悪質な用語です。 「北海道旧土人保護法」の審議を行った帝国議会では、質疑に当たって「土人」という言葉が使われました。 また、1920年代に北海道庁は「土人病院」を設置し、1923年には「土人救療規定」を設けられるなど、実際には「土人」という言葉も並行して使われました。 つまり「旧」という言葉はごまかし以外の何ものでもありませんでした。 日本の帝国主義の拡大に伴い西太平洋諸島(南洋諸島と呼ばれました)でも差別的な「土人」という言葉が使われています。 ▲TOP |